見習い軍師の小さな野望
「ええ!?そんな事があったんですか!?」 城の外での用事を済ませて自分の執務室へ戻ってきた周公瑾は、その手前でそんな声を拾った。 聞き覚えのない声ではない・・・・というか、むしろいつも聞きたいと望んでいる声を。 (花、ですか。) ちらっと回廊の外の空へ目をやれば陽が昼の位置より傾いている。 最近の花は午前は子敬に師事したり勉学したりして過ごし、午後になると公瑾の仕事を手伝いに来ている。 (まあ、手伝いといってもまだまだですが。) やっとこちらの字を読めるぐらいにはなってきた花の出来る手伝いといえば書類の整理とか使い走り程度だ。 (それによく失敗しますし。) 先日も両手一杯書簡を持って、思い切り転びそうになった花を思い出して公瑾はため息をついた。 もっとも、そんな公瑾を花以外の呉軍の者が見たらこっそり微笑んで言うだろう。 そんな無理に渋い顔をしなくても嬉しいなら素直に笑えばいいのに、と。 何故なら彼らは知っているからだ。 花が手伝いにやってくる午後の時間にはなるべく執務室にいられるように公瑾が仕事をこなしている事を。 ちなみに、昼を過ぎても執務室に帰れないような用事が発生すると、もれなく公瑾の絶対零度の笑顔と魂を抉る皮肉が飛んでくるというのも最近の呉軍の常識だ。 おかげで今日も無事にこの時間には執務室に戻れたわけだが、今日は花が来るのが少し早かったらしい。 (それにしても独り言という事は無いでしょうから・・・・) 誰かと話しているのだろうか、と公瑾が歩を進めながら思った時、楽しそうな声が耳をくすぐった。 「そうだよー!」 「それからね、その時は・・・・」 ころころと小さな鈴でも転がすような可愛らしい声に、公瑾は苦笑した。 こっちの声にも聞き覚えがある。 公瑾にとっては付き合いの長い友人、大喬と小喬だ。 (察するに執務室で待っていた花の所へ大喬殿と小喬殿が話に来た、というところですか。) 花は話し好きで面白い事好きな姉妹のお気に入りだ。 こっちに飛び火さえしなければ、その交友関係は非常に微笑ましいものなのだが・・・・。 「ええ!?公瑾さんが!?」 「そうそう!」 「ねー、驚くでしょ?」 (・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・) ―― 飛び火さえしなければ。 危うく口元が引きつりそうになったのを何とか堪えて公瑾は目の前に自分の執務室の扉に手をかけた。 そしてことさら丁寧に扉を開ける。 手入れの行き届いた城の扉はきしみ1つあげずに静かに開いて、部屋の中の楽しげな笑い声が質感をもって公瑾の耳に届いた。 「だからね、公瑾はしょっちゅう怒られてばっかりだったの。」 「うわあ、意外ですね。」 「あの人達には嫌味とか通じなかったしね。」 「へええ。」 (・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・) ますます口元が引きつりそうな会話が続いている所をみると、姉妹も花も扉が開いたことに気が付いていないらしい。 視界を遮る衝立の向こうをそっと覗けば大喬小喬と花が茶器の乗った卓を囲んで話に夢中になっていた。 人の話を真っ直ぐ聞く花と、楽しげに話す姉妹の姿は見ているには大変好ましい。 が。 「でねでね、その戦の時は公瑾の策が裏目に出て ―― 」 「・・・・楽しそうですね、皆さん。」 「「「!?」」」 今の今まで漂っていた女の子同士のおしゃべり独特の可愛らしい空気を切り裂く白々しい程朗らかな声に、卓を囲んでいた3人が同時にびくっと肩を揺らした。 もっとも、その後恐る恐る振り返ったのは花だけで、残りの二人は返って楽しい事になったかのようににまっと笑ったのだが。 「こ、公瑾さん。お帰りなさい。」 「ええ、貴方も今日は早かったようですね。大喬殿と小喬殿と油を売るぐらいには。」 「あ、はい。今日は子敬さんが午後から予定があったので早めに終わりました。」 いつもの癖的に小さな棘を潜ませたのに、まったく意に介されずむしろ午前中は子敬と一緒だったのか、と小さな嫉妬の反撃を食らってしまって公瑾の笑顔が一瞬揺らいだ。 幸いにもそれは花には見とがめられなかったが。 「それで楽しそうに何の話をしていたんです?」 気を取り直して公瑾は大喬小喬姉妹に笑顔を見せる。 もちろん、聡いこの姉妹がその笑顔を額面通り受け取るはずはない。 ないのだが。 「えー、秘密だよ。」 「うん、女の子の秘密秘密♪」 「・・・・・・・・・・」 一瞬、本気でイラっとした。 (・・・・伯符、この方達は一体どこでこんな風に曲がってしまったんだろうか・・・・) 出会った時はまだ素直な少女達だったはずなのに、と思わず往時を知る亡き親友に確かめたくなってしまった公瑾を他所に、「曲がって」しまった少女達は楽しげに花に話しかけた。 「公瑾戻ってきたからお仕事だよね?」 「あ、はい。」 「じゃあ私達は行くね。また聞きたくなったら教えてあげる!」 「はい。ありがとうございます。」 「「うん、じゃあねー」」 にっこり笑う花に姉妹らしいそっくりさで手を振って小さな台風が執務室を出て行った。 それを、花は笑顔で、公瑾はため息で見送って・・・・。 「・・・・それで?」 「はい?」 おきまりの笑顔を消して問いかければ、花がぎくっと肩を揺らした。 その隠し事の下手さ加減に呆れながら、公瑾は言葉を上乗せする。 「随分楽しそうでしたが、何を話していたんです?」 「えーっと・・・・その・・・・」 「・・・・さしずめ、私の失敗談ですか。」 「き、聞こえてたんですか!?」 目を丸くして叫んだ花に、公瑾はため息をついた。 「それでは肯定しているようなものですよ。」 「あっ・・・・」 慌てて口元を押さえたところで後の祭り。 気まずそうな空気が執務室に流れて。 「あ、の・・・・お茶、飲みます?」 「頂きましょう。」 どうしたらいいのかわからない、という顔で花が言い出した言葉に笑いそうになるのを堪えて公瑾は頷いた。 ほっとしたように見せた花の笑顔に小さく鼓動が揺れる。 (まったく軍師にあるまじき百面相ですね。) 出会った時、伏龍の弟子とは思えないと感じた原因である花の反応は今でも変わりない。 けれど、あの時はうさんくささしか感じなかったそれは、今ではなんとしても護りたい公瑾の大切なものになった。 今だって過去の失敗談を聞かれた事は遺憾だけれど、こんな花の顔が見られるならそれも帳消しにできそうな気さえしている。 卓の大喬と小喬が抜けた場所に座りながら、そんな自分の変化に居心地の悪いような、良いようななんとも言えない気分になっていた時、不意にカチャカチャとなっていた茶器の音が止まった。 「?」 見れば茶を用意しようとしていた花の手が止まっている。 「花殿?」 「・・・・あ」 声をかけられてハッとしたように花は顔を上げる。 その表情が少し曇っているのを見てとって、公瑾は眉をひそめた。 「何をぼーっとしているんですか。手元に集中しないとまた茶器を壊しますよ。」 「あ、はい。ごめんなさい。」 「別に、謝って欲しいわけではありません。」 火傷などしないように気をつけて欲しいだけ。 微妙に素直に出ない言葉に公瑾はもどかしさを感じたが、花にはちゃんと伝わったらしい。 「気をつけます。」 微笑してそういう花に「そうしてください」と何でもないように返しながら内心ホッとした。 「それで何を考えていたんですか。」 「え・・・・ああ。」 良い香りをたてる茶器が目の前の卓に置かれた所で、公瑾がそう言うと花は一瞬考えてそれから頷いた。 「別にたいした事じゃないです。」 「たいした事じゃなくても何か気になっているのでしょう?」 「気になっているっていうか・・・・」 公瑾に追求されて花は自分も卓に座りながら少しだけ困ったように笑った。 そんなに答えにくい事でも考えていたのか、と公瑾はひやりとしたが次いで花が口にした言葉は全く予想外の方向だった。 「本当にたいした事じゃないんです。ただ・・・・ちょっと悔しいなあ、って。」 「悔しい?」 「・・・・えっと、さっきまで大喬さんと小喬さんと話していたんですけど。」 「私の失敗談ですか。」 茶々を入れると花が気まずげに笑った。 「最初はそうじゃなかったんですよ?ただ色々話しているうちにそうなっちゃったっていうか・・・・」 (それはおそらく大喬殿と小喬殿の仕業ですよ。) 最近、公瑾と花を弄ることに楽しみを見出しているらしい姉妹の巧妙な手口に公瑾はため息をついた。 それは花も薄々分かっているのだろう、あえて公瑾のため息の理由には言及せずに話し続ける。 「それで色々教えてくれたんです。伯符さんに消極的だって怒られてケンカになったとか、声色を当てられなくて小喬さんが泣きそうになって本気で困ってたとか・・・・」 「・・・・相変わらず覚えていて欲しくない事だけはしっかり覚えていますね、あのお二人は。」 花が選んだ例がそれなら他にどんな事を吹き込まれていたのか考えるに青筋が浮きそうになる。 けれど、ふっと公瑾は気が付いた。 花がいつの間にかさっき考え事をしていた時と同じ顔をしていることに。 どこか嬉しそうで、けれどどこか寂しそうな、とても複雑な顔を。 「花?」 「私が公瑾さんに会ってから1年もたってないぐらいだから当たり前なんですけど・・・・お二人は私の知らない公瑾さんをずっと知ってて、そういう話を聞くのは公瑾さんの事を一杯知れるから嬉しいんです。 でも・・・・ちょっと悔しい。 私の知らない公瑾さんを他の人がちゃんと知ってるのが、ちょっと悔しかったんです。」 自分に呆れたように笑いながらそういう花を前に公瑾は心底どんな顔をしていいのか迷った。 慣れた笑顔を貼り付ける事さえも上手くできなくて、やけに早口に「そうですか」と呟いて誤魔化すように茶器を口元に運ぶ。 そうでもしなければ緩んだ口元を隠す手段を思いつかなかったのだ。 ふわりと優しいお茶の香りも残念ながら、今の公瑾の動揺をなだめる役にはあまりたたなかったけれど。 けれど、その時公瑾は忘れていたのだ。 山田花という少女はとんでもなく素直で、とんでもなく真っ直ぐで、とんでもなく・・・・心臓に悪い事を。 故に「だから」と花が言葉を続けた時、不用意に彼女の方を向いてしまった。 故に真正面から・・・・照れくさそうな花の甘い甘い笑顔を見てしまった。 「だから、早く私が一番公瑾さんの事を知ってるって言えるようになりたいです。」 「――・・・・・・」 笑顔と、最高級の殺し文句に真っ白になった公瑾の手から茶器が滑り落ちて ―― ―― 後日、珍しく花ではなく公瑾が茶器を割ったらしいという厨房の者の話を聞いて、大喬と小喬が笑い転げたのは言うまでもないだろう。 〜 終 〜 |